6月~8月に開催される「夏祭り」。全国各地で様々な祭りが開催されますが、その中でももっとも多くの集客をしている祭り。それが「博多祇園山笠」です。福岡ではテレビ中継されたりしますが、せっかくなら直で見たいですよね。
今回はそんな「博多祇園山笠」について話をしていきたいと思います。
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博多祇園山笠の起源
博多祇園山笠の起源は諸説あります。
櫛田神社の社伝によると、祭神の一つ祇園大神(素盞嗚命(スサノオ))を勧請したのが941年(天慶4年)のことで、勧請間もなく始まったという説があります。また、「九州軍記」という文献に初めて記されていることから1432年(永享4年)を起源とする説もあります。
その中でも一番有力とされているのが、鎌倉時代の1241年(仁治2年)に博多で疫病が流行した際に承天寺の開祖・聖一国師(円爾)が町民が担いた施餓鬼棚にのって、祈祷水を撒きながら町を清めてまわり、疫病退散を祈願してまわったことを起源とするという説です。
770余年の伝統を誇る祭りということになります。
博多祇園山笠の歴史
○1587年(天正15年)
山笠の基となる「流」ができます。
豊臣秀吉が九州征伐をしたとき「太閣町割り」というものを行ないました。
東は御笠川、西は博多川を境にして町割りを行い、その一区画を「流」と呼びました。
○1872年(明治5年)
明治政府によって「博多松囃子」と共に山笠は突然禁止されました。
○1875年(明治8年)
明治5年に出された山笠禁止令が、この年だけは一時的に解除されましたが、許可が下りたのが6月13日の夕方で追い山までに間に合わないため、一体の人形に浴衣を着せ、生き松を添えただけの簡素な山笠「ゆかた山」が作られました。
○1883年(明治16年)
11年ぶりに本格的山笠復興しました。
○1898年(明治31年)
福岡県知事が山笠行事の中止を提議しました。
理由には、山笠が電線を切断する事故が相次いだことが含まれていたため、実際に運行する3メートル程の「舁き山」と、飾っておくだけの「飾り山」に分けられました。
また、舁き手の出で立ちが締込みだけの裸に近いものだったことが野蛮に映った事も中止提議理由にあったため、町側が知恵を絞り全員が水法被を着用してすることになりました。
これらは現代の山笠で受け継がれています。
○1910年(明治43年)
電車架線のため舁き山が低くなり、追い山が新暦7月15日に行なわれるようになりました。
(追い山は旧暦6月15日に行なわれており、改暦からしばらくは新旧どちらに従い行なうか試行錯誤が繰り返されていました)
○1945年(昭和20年)
福岡大空襲のため山笠も中止となりました。
○1948年(昭和23年)
山笠再開。
ただし全コースを舁くだけの人数が足りないため、追い山ならし、追い山とも櫛田入りのみだけでした。
○1955年(昭和30年)
博多祇園山笠振興会発足。
「博多部外」の新天町等でも飾り山行事が行われるようになりました。
○1962年(昭和37年)
「博多部外」である福岡市中心部に舁入れる集団山見せなどが行われるようになりました。
福岡市が「観光客誘致」「市民的盛り上がり」を目的に要請したもので、万四郎神社前(のち蔵本交差点)から天神・福岡中央郵便局前までの昭和通り約1500メートルを走り、福岡市に舁き入れました。
○1964年(昭和39年)
川端通商店街(上川端通)で山笠の分化前の姿を彷彿とさせる「走る飾り山」を復活させ、その後も櫛田入りを奉納し続けている。
「走る飾り山」は電線や信号機・標識などに接触しないよう伸縮式になっています。
現在もある名物の一つです。
○1965年(昭和41年)
博多地区の町界町名整理が実施されました。
この煽りを受けて解散や分散をしましたが、この町界町名整理で出来た新しい「町境」を加味して、東町流を中心に東流、西町流を中心に西流が誕生しました。
大黒流、恵比須流、土居流は旧町単位で参加しました。
○1970年(昭和45年)
子供(小学生)が小型の山笠を舁く「子供山笠」も始まりました。
○1979年(昭和54年)
国の重要無形民族文化財に指定されました。
○1980年(昭和55年)
博多祇園山笠史上初の海外遠征を行い、ハワイ最大の祭り「アロハ・ウィーク・フェスティバル」に参加しました。
○2002年(平成14年)
飾り山や山笠の人形の衣装の生地が、博多織が使用されることになりました。
これまで長年にわたり京都の西陣織を使用していたが、地元の博多織を人形の衣装の生地に使うようになりました。
博多祇園山笠の日程と内容
◇飾り山見物(7月1日〜7月14日)
博多祇園山笠は7月1日から開幕し、まずは博多部を中心に合計14の飾り山が公開されます。
◇お汐井取り(7月1日・7月9日)
毎年7月1日と9日の2回行われ、山笠の安全を祈願して全流の舁き手たちが箱崎浜に集まります。
各流の舁き手たちは石堂川(御笠川)にかかる石堂橋から箱崎浜へ向かい、筥崎宮を参詣、そして櫛田神社を参詣します。
◇流舁き(7月10日)
舁山がホームグラウンドである流区域のあちこちを舁き回ります。
◇朝山(7月11日)
日がまだ昇らぬ早朝5時、博多の町のあちらこちらで「おっしょい」の声が響き渡ります。
「朝山」と呼ばれる流舁きで山笠はスタートします。
◇他流舁き(7月11日)
「流舁き」は自分の流域への披露を込めて舁く行事ですが、「他流舁き」は自分の流域外に出て他の流の流域に舁き入れます。
◇追山ならし(7月12日)
追い山に向けた予行演習が行なわれます。
◇集団山見せ(7月13日)
舁き山が博多部を超えて福岡中心部に渡る唯一の日がこの日になります。
7つの流すべての舁き山が一堂に会し、福岡市役所前の桟敷席を目指します。
「明治通り」を、呉服町交差点から福岡市役所に向かって次々と走っていきます。
◇流舁き(7月14日)
各流がホームグラウンドである自分たちの流域を走ります。
千代流と東流を除く五流が夕方に行います。
◇追い山(7月15日)
博多祇園山笠のクライマックスのイベントです。
一番山笠が櫛田入り奉納を皮切りに、合計8つの山笠が次々に櫛田入りを行い、まだ薄暗い博多の街へと駆けだしていきます。
今回は「博多祇園山笠」について話をしてきましたが、いかがでしたか。
豪華絢爛に飾られた山や舁き山の走っている様子は迫力あり見応えのあるものだと思います。
興味のある方は是非足を運んでその様子を体験していただきたいと思います。
written by ken-ken
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